じーこの『かんがえよう』

興味の痕跡をただ綴るお部屋

『あなたは誰ですか?』自らを理解することが果たす意味

 「自己理解」と聞けば就活における自己分析と思いつくのは

自分が大学三年生だからだろうか。 

 

「たかだが数か月で理解できるくらいなら誰も苦労しない」と考えるのは

自分がひねくれ者だからだろうか。

 

僕にとっての日々の生活・瞬間は

その全てが「自らを理解すること」に大小あれどある程度は関係しているものと認識している。理解することとは「自分が何なのか」「社会的な存在としての自分は誰か」「いったいどんな価値を与えられるのか」「言語化不能な存在としての自分はいるのか」など、書き続けたらキリがないので上の例にとどめておく。

 

突然僕が絵を描き始めたのも、写真を撮り始めたのも、友人と遊んだり飲んだり飯を食ったりするのも、大学で哲学を専攻したのも、旅行をするのも、授業をサボって国外へ消えたのも、興味を持ったものにすぐ手を出すのも、巡り巡ってけっきょくのところなんらかの形でその目的達成の助けになるのかもしれないと淡い希望を抱いてるが故だ。

 

そしてその目的を果たすために最も大切であると思われることは

「他者を観察して深く理解すること」ではないかとここ最近は感じる。

 

『自分以外の物事を観察することは結局のところその対象を写し鏡にして自分を見るという行為である』

フランスの哲学者、ベルクソンは著書「笑い」の中でそう語る。

 

これは僕自身も大いに賛同するところで、

「目に付いたものや自身で構築した関係性が全くもって自分に意味をなさないこと」に対して

多くの人々が否定するであろうところにもおそらく証拠はあるのだと思う。

また、周囲の環境によって自分自身が影響を受けて左右されることについてもこれを否定する人は決して多数派ではないと感じる、

もちろん個人的な経験というのもそうだが

 

『ホモ=サピエンスという生物の発展における違いが生まれたことの理由は

「起源作物があったか、家畜化可能な動物が生息していたか、大陸の環境が山に囲まれた谷の多い高地なのか、それとも移動のしやすい平原地帯だったのか」が主な原因ではないか』

そう科学的に主張する進化生物学者もいれば、

 

『街頭アンケートで人に進んで危害を加えることに対してNOと回答した人が、ある特定の環境下においては危害を加えるに対してなんら罪悪感を感じなかった』

と実際の実験(ミルグラム実験)を通して確認した心理学者もいる。

 

主観的にも客観的にも「環境の影響は決して0ではない」ことの真偽に関しては

およそ真の要素が強いのではないのだろうか。

上のことをベースにしてもやはり

「自分の外にあるものを観察して理解を深めること」は

最終的に「自分」という場所に立ち返ってくることになる、と

考えてもあながちズレてはいないはずだ。

 

あとは観察する対象の難易度・個人の好み・実際の行動によって深さの違いが生まれていくのではないか。

 

この深さの違いについては去年一年間イタリアに住んでみて、その間にヨーロッパ10何か国を回り、そして帰国して国内の他県に足を運ぶようになって、人との対話を自発的に行うようになってから感じ始めたことだ。

上記を踏まえたうえで改めて考えてみる。そのうえで出た結論は以下になった。

 

『自分の留学生活や今までの人生を無かったことにするつもりは毛頭ないけれど、

残念ながら自分は「考えているフリ」をしていたのであって実際の物事の理解の度合いはかなり浅い』

『つまるところ楽しんでいたのは思考状態と錯覚した自分自身であってそれは何ら価値のない自己陶酔だった』

 

記事を書いているまさにこの瞬間も、

もしかしたらどちらかに当てはまっているのかもしれない。小難しい言葉を並べて愉悦に浸る自分というのが確かにいる気がする。

 

「自らを理解すること」に対しての正解は存在しない。

しかしそれが「自己陶酔の傾向がある」として終わらせるほど時間を浪費するつもりもなければ「人生を通して知っていこうぜ!」と、半ば問題を先送りにする形で現在の思考を放棄するような愚かなことは、その誘惑に駆られつつもまだ自我までは殺されていない。

 

ならばこの重要な問題を解決するために必要なものはなにか。

自分が生きて逃れるためにはどうすればいいのか。

 

この場合において頼るべくはさきに書いた「環境」ではないのか。

なかでも「人との対話」は口を持たない他者との関係性と比べると

より一層理解、そして自戒という意味において影響を強く持つのではないか。

 

それはなぜか。

 他人の思考プロセスを辿るにあたって大切なのは面と向かって会話をすることだと思っているからだ。

ここで「音」が伝えることの意味は大きい。

考えを聞きつつもそこに生きているものを感じることができるからだ。

たとえ自分と考えが異なっていても、時に真逆でさえあっても

僕と会話をするその人は生きていて確かに実体として存在している。

 

<生に執着する人と自殺願望を持つ人が同じ時間軸で生きている>

アナーキストが民主主義国家の中で普通に暮らす>

キリスト教徒とイスラム教徒が同じ国で平和的にお互いを助け合う>

 

こんな状況でも全く同じ時間軸で、世界で存在をしている。

 

話を戻すと「対話」が他よりも強い役割を持つという意味においては

「音」以外に「存在する生物」としての理由が大きいように思われる。

「生きているものを感じることができた」というのがそれだ。ただこれは個人の感覚であって他の人がどうかについてはまだ知るところではない。

(人によっては芸術作品や自然も語りかけてくるし対話はなんでもできるということもあるのかもしれないが、僕自身はまだそれが出来ていないので今回は含まないでおく。それを目指していますという程度に。)

 

役割の強い弱いは別にして、

対話や、そしてそれ以外のものは

「自分にはないものを気づかせてくれる」ことで根底から共通している。

 

『自分を理解すること』は『他者を知ること』でもあって、

『自分にないものを気づくことの契機』にもなる。

この3つでカバーできるものを考えた時、存在するものほとんどすべてに対して

当てはまっていることになる。

そこまで多くの事を知ることは果たして何に繋がるのか。

 

結論から言うと

「自らを理解すること」の果たす意味はしらない。他者を知ることも・自分にないモノに気づくこともそもそも意味があることなのかどうかすら分からない。

それでもあえてタイトルに書いたのは自戒の意をこめたかったからだ。

 

 

でもいったいどうして確かに存在している、生きている自分の身体や心を知りたいと

思わないで生きていられるのか。

 

「あなたは誰ですか?」と問われた時に

出てくる言葉が「肩書き」だけなら、

ほんとうに自分のことを知っているとは言えるだろうか。

 

 

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