じーこの『かんがえよう』

興味の痕跡をただ綴るお部屋

僕が美術館で見たのは「絵を見ない人たち」 『美術認識』の疑問

 

 

 

二ヵ月以上も前の話

大学の授業を欠席した僕はルーブル美術館にいた、芸術に詳しくない自分でもその名前は知っていたし、展示されている作品の数がもの凄いということでも有名な美術館だ。ある事情と目的があってそこへ向かった訳だが今回の焦点はそこではない、僕がそこで見た異様な光景についてだ。写真を撮ってはスルスルと別の作品に移動、パシャリと一枚撮ってはまた移動、、、まったく見ないということでないけれどちらりと一瞥を与える程度でどこかへ行ってしまう、作品を見ていない人たちがいたのだ。

 

そんな人を見ていると当然不思議な感覚になる、疑問も出てくる、

「なんで美術館に来ておいて作品を見ないのか」「金と時間の無駄じゃないのか」

「理解不能」といったような。

 

そんなことについて。

 

もはや鑑賞というよりむしろ眼とカメラのレンズに作品を収める「作業」と化している、

「洗練された作品なら、世界的に有名とされている作品ならもしかすると芸術的感覚の鈍い自分でも感情的に触れるなにかがあるのではないか」「作品を写し鏡に自己の理解につなげることは出来ないか」思考や悩みをはらんだ感覚とはほとんど対照的だ。

 

これは特にインタビューをしたわけでもなく個人の独断と偏見で推測しただけになるが、「何か非日常的なモノを非日常的な場所で見る感覚」よりも「『自分』が「こんなにもいろんな場所へ行ったことを、色々なモノを見たことを誇るための証拠づくりのようなもの」だと僕としては思っている。

 

当然なこととして、世界中の人すべてが旅行に行ける訳じゃない。

先進国だからといって国民全員が旅行へ行けるほど経済的余裕があるということもない。むしろ外国へ遊びに行けるという時点で比較的裕福だ。

そしてその層の中でも差別化を図るためには「いろんな場所に行っていろんなモノを見る」という行為が何かしらの証拠付きで求められる。その証拠として手っ取り早いものが今でいうとカメラになる。だからパシャッて移動を繰り返す、、、

 

ものすごくひねくれた嫌な見方だと自分でも思うが、どうしてもそういった風に

僕の目には映ってしまう。

 

そこでは「絵」は見られておらず、「こんな有名な画家の絵を見てる俺最高」にシフトしてしまっている。なにもこれを否定しているわけではない、ただ僕個人の価値観とズレがあっただけでそれそのものとして存在は認知している。

 

「作品を見て何をどう感じたか」を大切にする人々がいるのと同じように

「私」が「なに」を見たかを大切にしている人々なのだろうか。

 

そしてここでもう一つ疑問が浮かぶ、

どうして僕たちは「価値あるもの」「美しいもの」を見る前提になっているのだろう。

なんで「作品が美しさを見せつけてくれる」と勝手に思っているのか。

 

専門家から評価されていて、社会的に重要な文化財とされていることと

鑑賞する個人がどう思うかは本来全くの無関係のはずだ。

こんなことをいうのはあれだが僕は「モナリザ」を見てなんにも思わなかった、ただの女性の肖像画じゃないか。どうしてそこまで評価されていて、しかも美術館の中でもとくべつ常駐の警備をつけるほど厳重に保護されているのか、もっと他に同等に保護されるべき絵があるだろうとすら思っていた。

 

要はそれくらい「良し悪し」を判断する基準は個人で異なる。

 

ピカソが」「ダヴィンチが」

僕たちは主語に騙されていないだろうか、「○○が」描いたからスゴイという発想は

個々人で持っている感覚を鈍らせてしまう。さきに書いた人たちもそうだ、

「評価されているからスゴイ」「有名で社会的に価値があるとされている」という

前提条件ありきで写真を撮っている。評価の高いモノの前で写真を撮ればそれを他人に見せた時に認識されやすい、作品に便乗している形だ。

そして無意識に「すごさ」が刷り込まれている以上、結局そこから考えてもきっと終わりにいきつくのは「やっぱりすごい」になる。

 

無思考的な受容は感覚をより鈍らせる、

それを繰り返し続けるといつの日か「自分の感覚」が完全にどこか知らない場所へ消えてしまう気がして怖い。

僕が無意識にルーブル美術館を選択していたのも上に書いたことの影響を受けていたと感じる。

 

仮に「モナリザ」の絵がどこぞの知らない画家作だったとして、もしそれが市民会館の一室に飾られていたのを僕たちが見たのなら、

それでもなおルーブル美術館で人混みが絶えないような、それくらい「素晴らしい!」という人はいったいどれだけいるのだろう。

 

「証拠づくりの作業」か「個人的に良し悪しの感覚を磨く時間」か、

はたまた「良いものを見て健康になろう!」みたいなスタンスなのか。

 

どれがあっても実のところはいいのだけれど、

疑問が数個同居していたので書きなぐる。

 

 

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補足:

「娯楽」であるかそうでないかの認識でこの話は180度変わる、

結局のところ娯楽的目線で見れば上の話は超どうでもいい。というかむしろウザい。

「記念写真」に意味を問われたら誰だって「ハ?」と思う。黙れksと罵る人もいるかもしれない。

今回は娯楽を無視した目線で書いています。

 

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