じーこの『かんがえよう』

興味の痕跡をただ綴るお部屋

僕は「ナルシスト」 自分なりの自己理解の手法

 

 

タイトルの通り、僕は「ナルシスト」だ。

意味の分からないタイミングで意図の読めないカミングアウトっぽく映るものの、

目的は少し違う。

 

ここで書きたいのは後ろの「自己理解」についてだ。

正直にいえば「ナルシスト」なんていうのは既に薄々気づいていたことではある、

ただそれを逃げ用のない形で突き付けられたから認めざるをえなかっただけだ。

 

ベルクソンという近代フランスの哲学者によると

芸術は「知覚していても意識のうちで気がつかないモノを作品を通して鑑賞者に気づかせる役割を持つ」らしい。

 

単純な僕はこの論をあっさりと受け入れて実践してみることに、

「自画像のデッサン」から未だ認知していない自己を探し求めた。

特別絵を学んだことのない人にとってはいかにデッサンといっても無意識の感覚や感情が絵の中に反映される、本来は写真的に見たままを描くのが鉄則だけれど、その難しさをあえて今回は利用する。写真でも鏡でもなんでもいい、とにかく自画像を描く。

 

結果だけ言えば、「ハッ」とさせられるようなとんでもないことはまだ見つけていない。

ただなんとなくの感覚としてわかっていても

言葉にするのが怖くて蓋をしていたものは否応なしに突き付けられる。

僕の場合はナルシストであったり、自己矛盾の現状であったり、、、

少しズレてしまったかもしれないが、現実の自己理解としては悪くない。

これは性格的なものからある状況に対しての自分の感情まで、割と応用ができると今のところは考えている。

なんならそこらの心理テストを受けるなんかよりもこの手法の方がいいんじゃないかと思うほどだ。自分で0から描いている時点で既に逃げ場もない、出来上がった絵を否定することは出来ないからだ。

 

いっぽうで心理テストの場合は統計的な「類型」に当てはめることでその結果を出す。

お遊びならまだしも、「自己理解だ!」と100パーセント受け止めてしまうのはかなり危ないことだと個人的には思う。

そもそも人の認識は出来事や現象をなにがしかの「類型」としてカテゴライズすることで理解をする仕組みになっている、簡単に言うとシルエットを見て「あれっぽいよね」と考えることだ。どれにも当てはまらないものが来た場合は驚きという感情で処理をする、「え!? なにそれ??」という感覚になるだろう。これはほとんど無意識的なアルゴリズムで行われているのだが、その延長線上に「自己理解」を置いてしまうとどうなるだろうか。

 

テスト結果を分析する時は能動的だが受けている時点では受動的だ。

既になにがしかの「類型」が存在する前提でページを進めてフィードバックを待つ、

「かもしれない」レベルでのあやふやな結果ですら正しいと思い込んでしまうことで

本来の自分とは異なっている可能性のある型に自ら形を変えて当てはまっていこうとしてしまう。結果として「自己理解」を目的にしていたはずが訳の分からない方向へ進んでしまうどころか、自身を見失うことになる。

しかも面倒なことにこの過程すべては先にも書いたように「無意識的なアルゴリズム」のもとで行われている。だから当の本人はそれに気づかない。そしてそれ故に自己理解という最初の目的からはどんどん離れていく。

 

こんな形の負のスパイラルに落ちかねない。

だから自分探しでネットに転がっている心理テストをクソ真面目にうけるなんかよりは

部屋引きこもって自画像描いてるほうがマシなうえに自分を見失うこともない。

 

 

「ネットで大量の情報が一瞬で手に入る」「昔と比べると社会は随分複雑になった」

 

こんなことをいう人は大勢いる。

もちろんそこから得られる恩恵もあるわけだがそれはそれとして、

情報過多で自分を見失う人も少なからずいる、僕もその一人だ。

アナログ的に社会から断絶した空間を作って、「芸術」を通して自分と向き合うことも

 必要なことではないのか。

 

ナルシストな僕は今日も自画像を描く。

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